生きた証をつらつらと 〜2つのがんを同時に患いました~

直径10cm・転移3か所・ステージIIIの乳がんを切らずにUMSオンコロジークリニックで治療し、子宮頸がんも4度の手術で温存して12年が経っても、まだ息をしている女の生き方

MENU

「○○して欲しい」は「○○してもらいたい欲望」が強すぎる【開く】

前回の記事はこちらから読めます↓ 

 --------

やたらと目につく「○○して欲しい」という表記

「○○して欲しい」という表記が,やたらと目につきます。

それが私には,「○○して」と「欲しい」が分断されて見えるのです。

 

「そこの醤油を取って欲しい」

「お願いだから,それはやめて欲しいです」

「できれば,早く言って欲しかったです」

 

またしても,三省堂大辞林・第三版から引用しましょう。

「欲しい」は

1. 自分のものにしたいと思う。手に入れたい

2.(補助形容詞) 動詞の連用形に接続助詞「て」の付いたものに付いて,相手に自分の望むことを求める気持ちを表す。近世以降の用法。…てもらいたい。 「はっきり言って-・い」 「こんなことは、もう二度としないようにして-・い」

3. 願わしい。望ましい。

(太字加工は当ブログによる)

とあります。

 

私が引っかかっているのは,この2番,「動詞の連用形に接続助詞「て」の付いたものに付いて,相手に自分の望むことを求める気持ちを表す」の使い方のようです。

辞書に載っているのであれば,その用法に間違いはないのでしょう。

 

ですが,あえて言いたい。

 

「そこの醤油を取って欲しい」

→「〜取ってほしい」

 

「お願いだから,それはやめて欲しいです」

→「〜やめてほしいです」

 

「できれば,早く言って欲しかったです」

→「〜言ってほしかったです」

 

これでいいと思うんです。  

「○○して欲しい」は「○○してもらいたい」欲望が強すぎる【開いて】

押しつけがましい印象になっている

要求を押しつけているような印象を持ってしまうのは私だけでしょうか。

辞書の解説にあった2番,

相手に自分の望むことを求める気持ちを表す

「望むことを求める気持ち」,まさしく,これです。

 

「そこの醤油を取って欲しい」

醤油をもらうことのほうが重要であって,「欲しい」がつくと,取ってもらいたい願望が前面に出過ぎてしまう。

 

「お願いだから,それはやめて欲しいです」

やめることのほうが重要であって,「欲しい」がつくと,その人が要求している事実のほうが前面に出過ぎてしまう。

 

「できれば,早く言って欲しかったです」

言ってもらうべき内容のほうが重要であって,「欲しい」がつくと,“言う”という行為だけを求める気持ちが前面に出過ぎてしまう。

 

…とでもいいましょうか。

編集用語で「開く」

ちなみに,書籍や新聞などで書かれたものを編集するとき,こうして漢字で書かれたものをひらがなに直すことを「開く」といいます。

 

先日,何かの記事に対するツイートで,「この人の平仮名の多用が気になる。頭悪い人の文章に見える」と書かれているのを見かけました。

 

違います。

漢字の多用で文字が密集し,読みづらい印象に見える文章を,ひらがなに「開く」ことで,読みやすい印象を与えているのです。

 

むずかしいことばを難しい漢字で埋め尽くせば,頭のいい文章になるというわけではありません。

読みやすい印象を与えるという作業も大事なのです。

「○○して」と「欲しい」が分断されて見える

話を戻します。

「○○して欲しい」は開いていないので,「○○して」と「欲しい」が分断されたように見えてしまいます。

 

「そんなの脳内変換すればいいじゃん」と言われそうですが,要求の本質がズレてしまうことになりませんか。

 

そこの醤油を【私に】取ってほしい。

お願いだから,それは【私は】やめてほしいです。

できれば,【私へ】早く言ってほしかったです。

 

私が,私が,私が。

強い自己主張の現れなのではないかなと思うのです。

 

日本人は奥ゆかしいとか,空気を読むとか,同調圧力に屈しやすいとか,そんなことを言われ続けてきた国民性です。

だから,自己主張をできるようになってきたのはすばらしいことです。

 

ですが,本当に自己主張すべきはそこじゃないんじゃない?と感じずにいられません。

やっぱり考えすぎでしょうか。

漢字を多用しなくても,きちんと順序立てていれば,話は十分伝わると思うんですけどね。 

 

文字は映像・画像にとらわれず,頭の中だけでイメージしたい

ここ数回は,文章を読んだり聴いたりするときに抱く違和感のようなものについて書いています。

 

この10年くらいでしょうか,テレビでは,出演者が発した言葉がそのまま字幕に表示されることが多くなりました。

「耳に入ったセリフがそのまま文字になるから,頭を使わなくなる」

「家事をしながら雑音でテレビの音がかき消されたときなどに便利」

などなど,賛否両論あるようです。

 

私は,できればあまり字幕にしてほしくないなと思うほうです。

現場にいるときや,映像を視るときは,言葉を発したときの顔つきや声のトーン,場の空気感も含めて感じ取りたいほうです。

逆に,文字で読むときは,映像・画像にとらわれず,自分の頭の中のみでイメージしたいのです。

 

テレビはあまり視なくなったのですが,それでもたまに家族が視ているものが目に入ってくることはあります。

 

文字が画面に出ると,その文字からの情報をイメージ化する助けにもなりえますが,あまりに乱発されると,とてもうるさいです。

音としてではなく,頭の中がうるさくなるのです。 

 

何度も言っていますが,“私はちゃんとしている”というつもりはありません。

国語学言語学を勉強しているわけでもなければ,専門家でもない,ただの所感のようなことをグダグダと述べているに過ぎません。

きっと,それこそきちんと勉強した専門家から見れば,間違いだらけでしょう。

 

一個人が目にした文に対して,「なんだかなぁ」という思いを抱いた,その無力感というか,無念というか,そんなようなものを吐露しているだけです。

これからもどうぞ,笑って読み流してください。