生きた証をつらつらと 〜2つのがんを同時に患いました~

直径10cm・転移3か所・ステージIIIの乳がんを切らずにUMSオンコロジークリニックで治療し、子宮頸がんも4度の手術で温存して12年が経っても、まだ息をしている女の生き方

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夏になり朝顔が咲き乱れるのがたまらなくつらいという話

前回の記事はこちらから読めます↓  

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朝顔の花が嫌い

朝顔が嫌いです。

小学校に入学すると,理科の実験と称して,1人1個ずつ植木鉢があてがわれ,観察記録をつける,あれです。

 

成長過程がわかりやすく,観察するのに最適だからなのでしょう。

文部科学省の学習指導要領には,「気づき」と表現されています。

気付きは対象に対する一人一人の認識のことですが,活動を繰り返したり対象とのかかわりを深めたりすることに伴い,一つ一つの気付きが関連付けられた気付きとなったり,対象への気付きが自分自身への気付きとなったりすることが考えられます。例えば,アサガオを育てる活動を行う中でアサガオへのかかわりを深め,アサガオの成長への気付きがアサガオの世話を続けることができた自分自身の成長への気付きとなることが考えられます。

文部科学省HP 学習指導要領「生きる力」平成29・30年改訂学習指導要領のくわしい内容 - 平成20,21年改訂 学習指導要領,解説等 - 改訂にあたっての関係通知等 - Q&A

 

学校側は定期的に購入することを約束させられ,一括納入された,おそろいの形におそろいの色のプラスチックの箱が,教室の窓の外,ずらりと並べられます。

たぶん,どこかの教材メーカーか販売店か何かの陰謀なのでしょう。


4月に種を植え,水をやり,芽が出た,ふた葉が出た,本葉が出た,と記録をつけます。
私もその集団に属し,他の40名ほどのクラスメイトと,同じ作業をしました。

歩行困難を引き起こした小さなケガ

ある初夏の日。
私はケガをしました。


母の職場の近くの公園で遊んでいて,アホなコケ方で,膝を3針縫う,けっこうな重症です。


一緒に遊んでいたお友達が,母の職場まで報せに行き,母は血相を変えて近くの外科医院に私を連れていき,処置をしてもらいました。

 

そこまでは,子どものケガとしては,わりとよくある話でしょう。

しかし,その翌日から異変が始まったのです。

 

歩きにくい。

 

なんとなく力が入らないが,歩けることは歩ける。

ふにゃふにゃしている感じはするものの,自分ではちゃんと歩いているつもりでした。

たまたま会った叔母が「何か変だわ」と言ったらしいのですが,私は聞いていません。

 

それから3~4日後だったか。

日曜日だったことは,なぜか鮮明に覚えています。

 

朝起きたら,立てません。


「おかあさん,立てない」

 

朝顔の花が嫌い



生まれたての子馬や子羊が,くらくらと崩れる,あの様子とまったく同じような,自分では立っているつもりが,くにゃんと座り込んでしまいます。

 

母がまた血相を変え,処置してもらった外科医院に私を連れていきました。


診察室でのやり取りは覚えていないのですが,「子どもですからねぇ」とかなんとかヘラヘラされた,老人医師の無責任な笑い顔は目に焼きついています。

 

大きな公立総合病院を紹介すると言われたらしいです。


母の中では『紹介状=重病』というイメージがあるようで,大ごとになったと拒絶感を抱き,頑なに拒否して病院を出ました。

救ってくれた伯父

たまたま家の近所に,タクシー乗り場がありました。

そこでは,タクシーの運転手をしている母の兄,私の伯父がいつも客待ちをしていました。

母の職場にも近く,そこへ相談に行ったら,良い病院を知っているといい,翌日連れていってくれました。


伯父に背負われて,オンボロ長屋の急勾配の暗い階段を降りたのを,いまでも覚えています。


ちなみにその伯父は,それから約2か月後に,私と同学年の息子と3歳上の娘を遺して,突然死しています。

 

そんなに大きくない,処置をした医院とさほど変わらない規模の医院で診てもらいました。


6歳になったばかりの子どもに投与するには多すぎる麻酔を施したのだろう,とのことで,様子を見れば治ってくるのでは,との診断でした。

母は6歳をおんぶして往復2kmを週3日歩いた

それから週3回ほどの通院が始まりました。


母は片道1kmの病院までの距離を,約20kgの肉の塊を背負い歩きました。


運転免許を持たず,タクシー代にも窮していた経済状態では,こうするしかなかったのです。

 

さて,昔の田舎の公立小学校には,両脚が完全麻痺し,歩行困難となった児童を受け入れる体制などあるはずがありません。


入学したばかりの学校に通う手立てもない私は,そのまま休学することになりました。


幸い,伯父が教えてくれた名医の治療の甲斐あり,夏休みが始まる直前,私は学校へ戻ることができました。

 

そして理科の時間。

あの無機質な青いプラスチックの植木鉢に植えた朝顔と再会しました。

朝顔との再会

覚えていたような,忘れていたような。

みんなの植木鉢には,つっかえ棒が刺さり,つるが伸び,早いものは花のつぼみがついている。

 

そこに,一際暗い様相を醸す鉢。

私の朝顔は,ひろひろとしぼみ,色こそ緑を保っているものの,明らかに他の鉢とは違う植物でした。


ずらりと並んだ青の四角の上空は,そこだけが下を向いてうなだれていました。

胸の中で,何か音がしましたが,そこで気持ちを表現するのはやめておきました。


学校に戻れた日,その日の授業に必要な教材を用意してこれず,連れてきた母と,担任と,クラスメイトの前で大泣きし,ドン引きされた記憶が新しかったのです。

 

夏休み前日の終業式,みんな自分で世話をするために,朝顔の植木鉢を抱えて持って帰ります。
というか,持って帰らされます。


私は自宅で毎日,一生懸命に水をやりました。

でも,みんなの朝顔のようにはなりませんでした。

もはや8月の終わり頃には,完全に諦めました。

 

そして,小学校に入って初めての夏休みは,終わりました。

 

2学期になり,また植木鉢を持っていったのかどうかまでは,もう覚えていません。


たしか,種を採取するはずだから,また学校に持って行ったのだろうが,当然,私の朝顔から種は採れませんでした。


みんなの観察記録は,青や紫の花が咲いたと,描かれていました。
私は,記録すらできません。

劣等感と孤独と他責の象徴

いまでも思います。


「学校に来られないあの子の分まで,みんなで世話しようね」とならなかったのかと。

 

それを誰かに責めても,ただの他責です。


担任の先生のことは好きだった記憶はあります。


といっても,ひとりで子育てすることに余裕がなかった母が,全幅の信頼を担任に寄せていたので,その刷り込みかもしれません。


せめて先生が替わりに水やりしてくれてもよかったのではないのか。

それとも,他人の手をかけることは児童のためにならない,という判断だったのか。

 

そんな昔のことを責めたりしてしまう理不尽な瞬間があります。

 

朝顔の花は,この歳になったいまの私に,いまだ暗い影を落としています。

これからの季節,生け垣や庭先に据えられた植木鉢に,朝顔が葉を繁らせます。

そして花を咲かせ,種を採るのでしょう。


もうじき,植木鉢を抱えて下校する小学生の姿が,目に飛び込んでくる頃。

だからといって,リベンジに燃えて,朝顔を植え直してみよう,なんてかわいい気持ちにもなれません。

 

2020年,今年の新小学生に対して,そんな理科の実験は催されたのだろうか。

たぶんないだろう,ないに決まってる,ていうか,ないのは当たり前だ。

 

そう思いたい。

思いたくて仕方がない。

 

朝顔は,私にとっては劣等感の象徴。
寒がりの私が大好きな夏の,たったひとつの小さな傷。

 

朝顔の花が,嫌いです。