自分以外はすべて「外」
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はてなのお題「外のことがわからない」に乗っかってみます。
もともと引きこもり気質なので,そんなに外のことを知ろうとしていません。
ていうか…
外…
そもそも「外」と申されましても。
身近に起きていること以外のことも「外」ですし,仕事以外のことも「外」。
日本以外の外国のことすら「外」です。
私にとっては,自分以外はすべてが『外』なのであります。
他人に興味がないのかな?と思わなくもないのですが,このコロナの騒動によって,他者との接触回数が激減し,ネットで情報を得るにしても限界はあり,そして面倒になり。
たしかに,他人に対する興味は薄れたように感じます。
第一,自分のことでさえよくわかっていないのに。
いいえ,「外」について,わかろうとしていた時期もありました。
空気を読もうとか,人の気持ちをくみ取ろうとか。
でも,わかりきることなんてありえないんです。
きっと,同じものを食べて「おいしい」と一緒に言ったところで,どのようにおいしいのかを共有できるのは,たぶん表面か,せいぜいその次の次の層くらいのレベルまで。
わかりたくて,わからなくて,たくさん泣いて,たくさん溜息をついてきました。
だけどそれは,自分のことをわかってもらいたかったからなのだと,ここ数年でようやく気づきました。
しかしながら,どうやったってすべてをわかってもらえるのは無理。
逆に,自分のことをわかってもらいすぎるのも気持ち悪い。
それと同じように,できる限りの真意や本質を知りたいと思っていても,果たしてそれが「わかった」ことになるのかどうか。
わかりすぎたことで,かえって凹まされることだってあるかもしれない。
ここまで書いて,もしかしたら「わかる」と「知る」を混同しているかもしれないことに気づきました。
「知る」ことについては,興味関心があれば,どこまでも知りたいほうです。
だけど,「わかる」を「理解する」という解釈でとらえるとしたら,限界があるのではないでしょうか。
いいんです,自分なりに納得して,自分以外の人に迷惑をかけなければ。
その“納得”という領域にたどり着くまでが,これまた大変なのだけれども。
わからなくていい。
自分の奥底に置かれているものをちゃんと見つめることができていれば,それ以上のものをわかる必要はない。
自分以外の,外のことをわかりすぎるより,自分の根っこの正直な部分がわかるほうが先なんじゃないかなぁ。
一介の社会不適合者として,そう思う。
今週のお題「外のことがわからない」