樹木希林さんと植松先生の絶妙な距離感【からだに優しい高精度がん治療】
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前回は『世界初からだに優しい高精度がん治療 ピンポイント照射25年の軌跡』という本について書いてみました。
UMSオンコロジークリニックの植松稔先生の新著です。
私が治療を受けていた2008年と変わっている点を挙げましたが,基本的なスタンスは変わっていません。
「患者のストレスになることはしない」
これが全編通してわかる内容でした。
そんななか,この本では,樹木希林さんの長女・内田也哉子さんと植松先生の対談が約30ページにわたって掲載されています。
今回は,この部分について私なりに考えてみます。
まずはじめに,樹木さんの乳がん闘病歴が出演映画の公開月と併せて年表になっていました。
2004年に乳がんと診断されましたが,その10年前から右胸のしこりを感じていたそうです。
しかし,娘の也哉子さんにはずっと言っていなかったというのです。
「なぜそんな大事なことを言わなかったの?」と聞くと,「だって言ったってしょうがないじゃない。あなたもまだ子どもだったし,ここで手術してバタバタバタッと対処するのも嫌だから,見て見ぬふりして,どこまで行けるかっていうので10年きたのよ」と。
(『世界初からだに優しい高精度がん治療 ピンポイント照射25年間の軌跡』植松稔 p.23 方丈社)
えええええええ?????
誰にも言わずに10年経ったとは。
しこりは2cm以下だったそうですが,それを10年放っておけるという樹木さんの考え方というか,精神力というか,やり方というか。
とにかく,そういう姿勢は誰にも真似ができないと思います。
私と比較するのもおこがましい限りですが,私が自分の胸に異変を感じたときはすでに6cmくらいになっていましたから,放っておこうと考えることができなかったのですが。
また,樹木さんは,最初の病院でステージ4だと言われたそうですが,植松先生の解説では,実はステージ1の段階だったようです。
リンパ節転移がたくさんある患者さんには,乳がんのお医者さんたちは,「これだけリンパ節転移があれば,いずれ必ずステージ4になります。ステージ4と思って治療したほうがいいですよ」と説明をしてしまうことがよくあるんです。骨とか肺とか肝臓とか,そういう別の臓器に転移がなければ,乳がんではステージ4にはなりません。乳腺の近くのリンパ節転移だけならステージ3までなんです。
手術してみたら,がん自体は小さかったんですけど,リンパ節転移がたくさんあったので「いずれはステージ4になると思いますよ」と言われたんだと思います。それでステージ4というのが頭に残っていたのかな。そういう説明を受けている乳がんの患者さんは,今とても多いです。
(以上,『世界初からだに優しい高精度がん治療 ピンポイント照射25年間の軌跡』植松稔 pp.26-27 方丈社)
植松先生の説が全面的に正しいという気はありませんが,医療機関や医師によって,こんなにも説明力が変わってくるのです。
セカンドオピニオンの重要性がわかる記述でもあります。
そして,年表を見ますと,私が治療を受けていた間とちょうど同じ2008年,樹木さんもクリニックを受診していました。
私より数週間早くスタートしていたらしいです。
後々になって,私も先生からそう聞かされてびっくりしました。
「樹木希林さんも来てたんだよ,診察の日には,そこであなたの隣に座ってたりもしたよ」
まったく記憶にありません。
以前の記事にも書きましたが,植松先生曰く,いわゆる『芸能人オーラ』のようなものを消してしまう人だそうです。
私がミーハーであることは否定しません。
直接お話しできなかったことが悔やまれます。
樹木さんが植松先生の治療を初めて受けてから,お亡くなりになるまでの治療の様子が,時を追って書かれているなか,娘から見た樹木さんの様子の述懐もまた,読み応えがあります。
そのなかでも,私と同じことを思っていらしたんだなと感じられる箇所がありました。
放射線で時間をかけて丁寧に30ヵ所以上も治療していただいたり,少しでもよくなるようにとホルモン剤を飲んだりすることに対して,もうこれ以上,治療に欲を出して生き延びようとすることがおこがましいと思うようになっていたようなんです。
(『世界初からだに優しい高精度がん治療 ピンポイント照射25年間の軌跡』植松稔 pp.33-34 方丈社)
私は,樹木さんのような誰からも愛され,目標とされるような生き方はしてこなかったと,自分のことを思っています。
ずっと自信がなく,今流行りの『自己肯定感』も低く,みじめだなぁと思うことの多い日常を送ってきました。
それでも,表現というものをやりたくて,役者や喋り手のようなものを目指していました。
しかしながら,その方面はちっとも芽を出せず,挙句の果てにはがんになってしまいました。
しかも,転移ではなく,原発がんを2つも。
放っておけば死ぬ病気ではありますが,何かやり残したことがたくさんあるとばかりに,生き延びるための手段を選び続けてきました。
ですが,こんなに施してもらえることができて,つらいだけでなく,優しい世界があることも知れて,これ以上求めなくてもいいんじゃないかと思うようになってきました。
やさしい夫と結婚できて,かわいいねこと暮らせて,毒親だと思っていた母とも穏やかな関係になれて,不自由はありません。
今となっては,またがんになっても,もうそんなに治療しなくてもいいかなとすら考えています。
ところで,樹木さんが,この治療をもっと世に広めたいと考えていた時期があったようです。
ですが,逆にこの治療が広まりすぎることで,そのありがたみを感じられなくなるのではという危惧もお持ちだったというのです。
最終的には,忙しい先生となかなか会えない,しかも鹿児島という地にあるという貴重な出会いを大事にするという考え方に変わっていきます。
やはりこの治療は鹿児島にあって,本気で受けたいと思った人だけが,時間を割いて行かなければ出会えない治療であってよいのではないかと思うようになったそうです。
私も,知人ががんになったら,この治療を勧めていたりしました。
ですが,結局のところ決めるのは本人であって,その勧めたときの反応で,こちらががっかりさせられたりすることもあり,それは私のエゴでしかなく,勝手に落胆していただけだということに気づいて以来,自分ががんであったことや,鹿児島で治療したこと,子宮頸がんでの手術の方法など,あまり表に出さなくなりました。
とはいえ,わかる人だけわかればいいけれど,知らなければわかりようもない。
その素晴らしさを伝えたいという,その思いだけで,私はこのブログを書いています。
樹木さんと植松先生の関係,医師と患者という間柄以上の,ちょっとうらやましいなと思えるお話も読めます。
また,筑紫哲也さんとのつながりも書かれています。
筑紫さんもまた,私と同時期に治療をしていて,何度かクリニック内でお見かけしました。
次回,この本について,もう少し続きを書いてみます。