生きた証をつらつらと 〜2つのがんを同時に患いました~

直径10cm・転移3か所・ステージIIIの乳がんを切らずにUMSオンコロジークリニックで治療し、子宮頸がんも4度の手術で温存して12年が経っても、まだ息をしている女の生き方

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普段よりも人の死を思う2週間でした【誰かに迷惑かけてもいい】

前回の記事はこちらから読めます↓ 

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衝撃だった三浦春馬さんの死

普段よりも,人の死について思う2週間でした。

 

2020年7月18日,三浦春馬さんが亡くなりました。

特段のファンというわけではありませんでしたが,NHKの『世界はほしいモノにあふれてる』という番組をたまに視ていて,「綺麗な人だな,いい子だな」と思っていました。

 

綺麗というのは,顔の造作はもちろん,なんというか,心の綺麗さが透けて見えるような佇まいをしていて,どこにも雑みを感じさせない男性だなという意味合いです。

(※あくまで個人の主観です)

 

私も,役者をやったり,しゃべる仕事など,芸能人の真似ごとの底辺に少しだけいたのでわかるのですが,結局,トップスターというのは『すごくいい人』という表現に尽きるんですね。

 

本当にトップの座に昇りつめる人は,誰からも愛され,誰にでも分け隔てなく接することができる人なのです。

ゴシップやスキャンダルを書き立てる雑誌などもありますが,それがどんなに虚構に満ちた駄文であるか。

実際に間近で見たことのあるスターはみなさんどなたも,その人を中心に,包み込まれるような空気感が漂っていました。

これがいわゆる『オーラ』といわれるものなのでしょうか。

 

それはさておき,三浦春馬さんはまさに,その『すごくいい人』な雰囲気に満ち溢れている印象がありました。

活動のいくつかをYouTubeで視てみましたが,パフォーマンスの数々はどれもハイレベルそのもので,惹きつけられます。

 

それだけに,自ら死を選んだというニュースは,ファンでなくても衝撃的でした。

彼の悩みや苦しみは,彼自身にしかわかりません。

彼のことでなくても,他者の思いを完全に理解することは,どんな記述や発言から分析しようとも不可能です。

 

ですから,これ以上のことは,ご遺族や近い人たちの間だけで共有できればいいのではないでしょうか。

それを解明しようと躍起になっている記事も見かけますが,そうした行為は,精神医学や心理学の分野の方々におまかせしておけばいいと思います。

ファン心理としては,どんなことでも知りたいという気持ちも出てくるでしょうから,そのあたりとの折り合いがむずかしいところではありますが。 

選択肢を広げる

自ら死を選択したALS患者

そして,その数日後には,ALS(筋萎縮性側索硬化症)患者の女性が,医師2人による嘱託殺人で亡くなったというニュースを目にしました。

夜のテレビ番組でニュース速報として字幕表示されました。

 

意識があっても身体の自由がまったくないという事実。

私もたぶん,同じような境遇になったら,死にたいと願うほうでしょう。

「それでも生きて」と言われたとしても,周囲の人たちに迷惑をかけている自分,やりたいことを何一つできていない自分に絶望することでしょう。

 

なってみなければわかりません。

もしかしたら,生きたい,生きたい,生きたい!という本能のようなものが湧いてくる可能性だってあります。 

現時点で想像できるとすれば,私もこの“被害者”の方のように,早く死なせてほしいと願うかなぁと感じています。

 

安楽死尊厳死の議論は,どんな専門家であっても,決着を見ることはないでしょう。

本人にしかわからない価値観,本人が抱く死生観,その上で,サポートする周囲の人びととの関係性なども複雑に絡み合う問題です。

そこに経済的な事情が加わるなどすれば,さらに複雑になってきます。

 

のほほんと生きさせてもらっている現在の私個人の意見として,批判覚悟で言うならば,自ら選択ができるようになってもいいと思います。

とはいえ,遺された人たちのことを思えば,簡単にはいきません。

手続き云々もさることながら,遺族のその後の心理状態に多大に作用します。

それを抜きにして「早く死なせて」と簡単に主張することは,私にはできません。

 

人の死というものは,そう簡単には受け入れられないことです。

ファンでなかった私でさえ,三浦春馬さんの突然の死は衝撃的すぎました。

このALSの女性の死も,自分だったら…と考えさせられた人も多いはずです。

それが,ましてや自分の身近で展開されるとなると,遺された人たちへのダメージは相当大きいことは想像に難くありません。

共通するのは「自ら死を選択した」ということ

このお二人に共通するのは,いずれも「自ら死を選択した」ということです。

ですが,その方法も状況もまったく違うものです。

 

『終活』というワードが世に出回るようになって久しいですが,それとは違った,『もしも活』も必要になるのかなと考えています。

 

もしも自分がこのような事態に陥ってしまったとしたら。

家族がこのような事態に陥ってしまったとしたら。

考えたくないけど,考えておかなければならないのかな,と。

 

そう思っていた矢先,このような記事を見つけました。

toyokeizai.net

白血病で亡くなった高校生のワイルズさんのブログ「ワイルズの闘病記」を軸に,亡くなった人が書き遺したものとの向き合い方が述べられています。 

故人のサイトだから対話できないかといえば、そんなことはない。当時のままの筆者がそこに存在している。自分のいない未来に対して声を上げているなら、耳を傾けてみるのは後ろめたい行為ではないはずだ。

享年17歳の闘病ブログが10年後の今も残る意味 | ネットで故人の声を聴け | 東洋経済オンライン

ワイルズさんが亡くなった後は,ご両親が引き続き更新していたようです。

遺された人は深く悲しみ,自問し,逝った人を思う

この3件を眺めて思うのは,遺された人が深く悲しみ,自問し,逝った人のことを考えているということです。

 

三浦春馬さんは,共演者やスタッフ,そしてもちろんファンの慟哭が,あらゆる方面から伝わってきます。

 

ALSの女性は,お父様がどこかの報道機関のインタビューを受けていましたが,家族として,たとえ本人が望んだとしても,勝手に殺されたも同然ですから,憤りを感じないわけがありません。 

 

ワイルズさんは,ご両親にとって一人息子だったようですし,失った悲しみは計り知れません。

亡くなった当時は高校生。

そのお友達がご自宅の祭壇を囲んで,彼を偲ぶ会食をしている写真などが載せられていました。

 

「ひとりじゃない」

「あなたのことを思っているよ」

 

私もがんのとき,よくこんな励まし方をされてきました。

と言われても…

自分のことで精一杯だし,自分の人生だから,自分のことは自分でなんとかしたいし,自分で決めたい。

 

他者が自分のことを思ってくれているなんて想像する余裕はありませんでした。

迷惑かけたくなくても,迷惑がかかっている。

その人の時間を奪っている。

そんな罪悪感というか,自責というか。

 

ここまで書いてきましたが,今回はうまくことばがまとまりません。

ただ,誰かが必ず自分のことを思ってくれている。

その人のために生きる,という選択肢があってもいいのかなと思います。

 

「自分のことなんて,誰も考えちゃいないよ」

私はそう思うときがありました。

 

それでも,この世の中に誰か一人は,必ず,必ず,必ず,いるはずです。

「そういう人だって,関わった日にゃ,迷惑かかってるでしょ」

私はひねくれているので,さらにそう思ったりもしました。

 

ですが,最近ではこう思うようにしました。

 

迷惑をかけることができるくらい,自分は尊い存在だ

 

ここでは,王様とか,エライ社長とか,そんな上位の概念と「尊い」というワードを結びつけます。

上位の人は,迷惑をかけても無条件でサポートしてくれる人がいるでしょう?

王様=尊い,そんな考え方。

 

自己肯定感が低いと,その考えと現実とのギャップに凹まされることもあるかもしれません。

しかしながら,私の場合は,意外とその言葉に脳が騙されてくれたようです。

 

誰かがどこかで見てくれているのだから,簡単に死ぬわけにはいきません。

その選択肢は,できることなら「生きる」一択のみでありたいものです。

できれば,「誰かのために,尊い自分が生きる」というオプションも加えておくといいかもしれません。

 

その相手が誰かはわからなくても。