無駄に過ごした1日は,誰のものでもなくやっぱり私の1日
前回の記事はこちらから読めます↓
今回も過去の日記を掘り起こしてみます。
2008年7月25日の日付です。
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「テレビ写りたい?」
センターに着くなり,植松医師から声をかけられる。
鹿児島ローカルの放送局が取材に来ていた。
CTの画像を一緒に見ながら,医師と患者のやりとりを撮影。
取材クルーからいくつかインタビューを受けた。
彼らも“よかったですねぇ…”と驚いていた。
約2ヶ月で,差が歴然としているんだもん。
すごいね! すごい!
「ね! ホントすごい!」
いや先生,あなたがすごいのよー!
…植松医師,やや苦笑。
そんな会話をそばで聞いていたクルーが,目を白黒させて,唖然としていた。
「昨日のCT見たときが,ホント嬉しそうな顔してたよね」
えー,先生が嬉しそうにしていたからだよー。
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この取材はたしか,NHK鹿児島放送局の夕方のニュース素材だったと記憶しています。
「昨日のCT」というのは,腫瘍が消えてなくなったことを確認した日のことです。
(過去記事:イマジネーションの力を使わない手はない)
そろそろ治療もおしまい,という頃でした。
友だちとのおしゃべりのような和気あいあいとした関係を目にしたNHKのクルーは,時折,キョトンとした表情を見せていました。
2か月もの間,自分の住む場所以外に滞在するということがなかったので,すべてが新鮮で,伸び伸びと過ごしていたら,もはやクリニックの住人のようになっていました。
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「今回の治療で,仕事をクビになっちゃったらしいんで,なんか仕事あったらまわしてあげてください」
先生がお願いしてくれていた。
わたし,鹿児島で仕事することになるのー?
ははは。
あてにはしていないけどね。
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この10日くらい前に,派遣で勤めていた会社から契約を解除されました。
6週間だった予定が8週間に延びたことで,「それでは受け入れられない」と通達されたことを,派遣会社のマネジャーから知らされていました。
このことは,また改めて別の記事に書いてみるつもりです。
その知らせを電話で受けた日は,「仕事辞めさせられた」と半べそかきながら治療に行ったのでした。
「なーーんだ,仕事くらい,いっくらでもあるじゃーん」
先生は涼しい顔をします。
でも,そんなことがあったことをちゃんと憶えていてくれて,冗談でもこんな心配をしてくれることが,とても笑えて,そしてとても嬉しかったです。
この撮影の後は,いつもどおりの点滴と照射のメニューへ戻りました。
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CTと放射線の照射の機械とその他諸々が,同時に1つの部屋に集まるなんて,見たことも聞いたこともない。
テレビのクルーも,部屋の広さに驚いたらしい。
ここには世界に一つしかない設備があるんだ。
単なる放射線医療,よくある標準的治療では決して得られない,その付加価値を求めて,全国各地からがん患者がやってくるのだ。
わたしの付加価値はなんだろう?
ありあまるお金を払ってもらえるだけのものを,わたしは持っているのだろうか。
わたしは真のプロフェッショナルになれるのだろうか。
わたしは何のプロフェッショナルなのだろうか。
わたしは本当にプロフェッショナルになれるのだろうか。
世界に一つだけの,超一流のプロたちによる,四次元ピンポイント照射。
わたしのがん治療も,そろそろ終盤だ。
次はわたしが超一流になる番なんだ。
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なんだかカッコよさげなことを書いていますが…
それから12年,真のプロフェッショナルと言えるものは手にできていません。
何をやっていたんだろう。
ちょっと凹んでしまいました。
いろいろとやってきましたが,何も実になっていない,身についていない,そんな感触です。
せっかく生かして,生きさせてもらっているのになぁ。
アラフィフといわれる年代になり,まだまだ甘い人生観だったのだと痛感しています。
「あなたが無駄に過ごした1日は,今日死んだ誰かが生きたかった1日かもしれない」
そんな名言のようなものがあります。
そうかもしれません。
1日を大事に生きないと,生きられなかった人もいるというのに。
ですが。
私の1日は,やっぱり私の1日です。
私の無駄は,誰かにとっては無駄ではないかもしれない。
超一流とか,真のプロフェッショナルとか,そうした表現は後づけであって,すなわち結果論。
過ぎていった日は戻らないから,これからの残りをきちんと丁寧に生きていけばいいだけのこと。
それが,お世話になった人たちへの最大の恩返しなのでしょう。
生きていれば,そんなことを悩む日さえやってきます。
それでもやっぱり,その人の人生は誰にも邪魔されるべきではないと,私は思うのです。