生きた証をつらつらと 〜2つのがんを同時に患いました~

直径10cm・転移3か所・ステージIIIの乳がんを切らずにUMSオンコロジークリニックで治療し、子宮頸がんも4度の手術で温存して12年が経っても、まだ息をしている女の生き方

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「がんになったくらいでおとなしくなるな」【疾病利得だったのかも】

前回の記事はこちらから読めます↓ 

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がんにかかった2008年当時に書いていたブログの下地となる日記を読み返していたら,走り書きというか,メモ書きのようなものを見つけました。

 

どこかで読んだ本の抜書きらしいです。

しかし,著者の名前もタイトルも控えてありません。

丸パクリにならないよう,自分が書いたものではなく,引用として載せてみます。

『疾病利得』

病気になることで得をする。

病気が生きがいになる。

↓↓↓

・休息できる

・困った問題を棚上げにできる

・自分への要求度を下げられる

・人の期待に応えなくてすむ

・辛い環境からしばし逃げられる

・周りからやさしくしてもらえる

・自分を罰することで納得できる

 

[これらを手放すには]

※病気を道具に使うのではなく,他の手段を使って,病気から得られていたのと同じ利益を得る工夫をする。

※割に合わないと自覚する

※治った先の人生,どんな毎日を送りたいかというイメージを持つ。病気が治ったとき戻る場所がつらいものならば,潜在意識はやっぱり治ることを拒否するかもしれない。

 

がんになったくらいで、おとなしくなるな

(某氏の某著書より)

がんになったのは,誰かにかまってほしかったからかもしれない

 「私ががんになったのは,誰かにかまってほしかったからなのかな」

たまにこう思うのです。

 

人を信じられず,人に頼ることのできない性格。

自分に自信がないせいで,他者を裁くような考え方。

当然,そんなことでは誰も近づいてくれません。

 

ですが,病院という場所は,患者を分け隔てなく平等に扱ってくれます(たぶん)。

 

最初に入院した病院で,巡回してくる看護師さんのワゴンには,PCが備えつけられていました。

 

たまたま,その電子カルテの画面を見たら,「知的能力が高く,治療やケアの協力に積極的」と書かれているのが見えました。

「えー,私,知的能力が高いんだー♪」と嬉しくなりました。

 

…言いたいのはそこではありません。

余談が過ぎました。

 

この画面を見て,私のことをきちんと観察し,私という患者について理解しようとしてくれている,世話をしてくれるということに,とてつもない感動を覚えたのです。

 

最初に入院したがん研有明病院(当時の表記は 癌研有明病院)は,その前年に大塚から移転したばかりで,とてもきれいな新築の建物。

高い天井の病室は間口も広く,何から何まで行き届いていた,快適な環境でした。

お見舞いに来てくれた人たちはみな,「すごくきれい」「いいなぁ」「私が入院してた▲▲病院なんてホント汚くて〜」と,口を揃えて言います。

 

まさしく3食昼寝つき。

誰も私のことを責めたりなじったりする人はいません。

スタッフのみなさんがやさしく接してくれます。

 

初めて入院したのが,そんな環境でしたから,私のどこかにある潜在意識の中の何かが,「あんなに幸せな空間はない,ずっとあんなふうに接してもらいたい」と思ったのかもしれません。

がんになったくらいでおとなしくなるな

「人生でこんなにやさしくしてもらったことはなかった 」

京都アニメーション放火事件の犯人が,自らも全身やけどで入院し,病院のスタッフからの施しを受け「人生でこんなにやさしくしてもらったことはなかった」と感謝したといいます。

 

彼のこの発言をニュースで知ったとき,涙が出ました。

それまで,何一ついいことのなかった人生だと彼は思っていたのでしょう。

もちろん,犯人のしたことは絶対に許されるべきではなく,私は彼をかわいそうだとも思いません。

 

ですが,この発言には共感してしまいました。

自分のような人間でも,手を差しのべてくれる人がいるということ。

整った環境で治療を受けさせてもらえること。

それのなんとありがたいことか。

 

とはいえ,それに甘えてばかりではいられません。

本当に病気を治したいのか,治りたいのか,そこにフォーカスすると,「ずっと病気のままでいたい」という人は少ないと思うのです。

疾病利得という概念

最初に手術を受けたとき,1週間くらいの入院で済んだのですが,言葉にこそ表さないものの,私の潜在意識は,『疾病利得』を存分に味わったのでしょう。

・休息できる

・困った問題を棚上げにできる

まさに,仕事を休みたい・辞めたい,だけど生活のこともあるからできないと悩む毎日。

人の下について働くということが向いていないと思い続けていました。

・自分への要求度を下げられる

・人の期待に応えなくてすむ

・辛い環境からしばし逃げられる

高度な要求や期待をされていたわけではありませんでしたが,頼まれたことをきっちりやらなければという,自分を脅迫するような仕事の仕方をしていました。

・周りからやさしくしてもらえる

難病であればあるほど,周囲の人からは,腫れ物に触るかのような扱いを受けるようになります。

・自分を罰することで納得できる

 「私が○○したからバチが当たったんだ」「私が●●なことを言ったから病気になったんだ」と,私も自分を責めて罰してきていました。

 

病気になると得をする,許される,快適に過ごせる。

私のカラダのどこかが,こんな勘違いをしてしまったから,子宮頸がんの再発と乳がんを引き起こしたのだと,今では考えています。

 

ちょっとスピリチュアルな言い方になってしまいました。

でも,私はこれまでもこのブログで書いてきましたが,スピリチュアルなものは遠ざけています。

天使が,先祖が,守護霊が,といったことは好きではありません。

 

とはいえ,医学的に『疾病利得』という概念が存在するというのです。

そもそも,こちらのほうが先で,上に書いた本は,医学用語から発展させた著者の思想を書いたものだったのでしょう。

 

「まず,『侵害刺激』があると『痛み行動』が出ますよね。そして,『痛み行動』に報酬が出ると,『痛み行動』が強化されるということですね。痛いと訴える,痛そうな顔をする,じっとしている。そうすると,優しくしてもらえたり,お金が出たりすると。そうやって『痛み行動』が強化されて,抜け出せなくなるサイクルがあるんです」  

痛いと得をする「疾病利得」で痛みが定着することも:日経ビジネス電子版

そうすると,私ががんになったのも,もしかすると,カラダがそういう反応をしていた可能性があるのかもしれません。

 

私のことを誰もわかってくれないと思っていた。

そのせいなのか,たまたまなのか,子宮頸がんが見つかった。

そのときの入院生活が快適すぎた。

その後もずっとつらいことばかり。

また病気になれば,あのときのように誰かがかまってくれる。

そして子宮がんの再発と乳がんの発症。

がんになるのはやっぱり割に合わない!

ですが,やはり割に合わないのです。

誰かに頼りっぱなしで,自分の手で切り拓き,自分の脚で歩くということをしない人生なんて,なんともったいない。

 

入院生活は,誰かに管理されている生活でもあります。

自分自身のことを自分自身で管理できなくてどうする。

「生きよう」「あきらめるな」とか,熱く拳を握るつもりはありません。

淡々とであろうと,自分の人生を生きなければ,生まれてきた意味がないと思うのです。

ここで伝えたいのは,病気になった事実から,自分の生き方を省みるきっかけになればいいよね,ということなのです。 

 

子宮頸がんが再々発したのは,乳がんの治療がさらに快適すぎたからかもしれません。

もちろんそれは,『疾病利得』の概念を通して見た,私の甘えが再々発を引き起こしたという,単なる素人である私の浅い発想に過ぎないこともつけ加えておきます。

 

『疾病利得』の概念をこの本で知ったとき,「一刻も早く,ここから脱出しなければ」と決めました。

再々発の手術で入院した病院では,設備も古く,一部のスタッフや患者さんとの折り合いも悪く,何よりも開腹手術というダメージを受けました。

だからこそ,「もう,二度とこの状態には戻らない」と固く決意することができたのです。 

※病気を道具に使うのではなく,他の手段を使って,病気から得られていたのと同じ利益を得る工夫をする。

※治った先の人生,どんな毎日を送りたいかというイメージを持つ。 病気が治ったとき戻る場所がつらいものならば,潜在意識はやっぱり治ることを拒否するかもしれない。

どんな手段を使って,どんな毎日を送りたいか。

これをイメージするのは,なかなか大変です。

それまでの自分の領域にないものですから。

 

私は,イメージというか,「またこの病院に入院するようなことにはなりたくない」と思いながら,1か月半の入院生活を過ごしてきました。

その前の病院に戻ることも,もちろんあり得ない。

 

おとなしく病気のことだけを考えるような日常にはしたくない。

退院したらしたいことを考えたりしていました。

習い事をしようか,旅行へ行くならどこにするか,資格の勉強でもしようか,そんなことばかり考えていました。

 

がんになったくらいで、おとなしくなるな

「おとなしくなるな」という言葉を,私は「楽しいことだけをやる」と解釈することにしました。

他にも様々な解釈の仕方はあるでしょうが,私はあえてこうしました。

 

治ったら,もっと楽しいことが待っているのです。

二度と,あのつらい毎日には戻りたくありませんし,戻りません。

 

治った先にある人生が,自分の納得できるものであるという選択をしなければ,本当の治癒・寛解は望めないのかもしれません。

おとなしくしてはいられません。

もっと違う世界があることを知って,頭の中を楽しいことで埋め尽くしていきましょう。