生きた証をつらつらと 〜2つのがんを同時に患いました~

直径10cm・転移3か所・ステージIIIの乳がんを切らずにUMSオンコロジークリニックで治療し、子宮頸がんも4度の手術で温存して12年が経っても、まだ息をしている女の生き方

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がん患者同士で傷をなめ合ってはいけない

前回の記事はこちらから読めます↓ 

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咽頭がんの治療のために入院していた,ペナルティのワッキーさんが退院したそうです!

おめでとうございます!

最初に報道されたときはステージⅠ とのことでしたので,たぶん順調に完治へ進むんじゃないかなと思います。

 

どちらの病院で,どのように治療されたのかまでは存じませんが,「治療の辛い時」と書かれているので,ご本人にしかわからないこともたくさんあったことでしょう。

副作用がつらいようなことが別の記事で書かれていたのを,どこかで見ました。

 

私の鹿児島での乳がんの治療は,もうパラダイスとしか言いようのない毎日でした。

ですが,その後の子宮頸がんの再々発では,開腹手術もしましたし,つらいことのほうが多かったです。

 

というか,つらいことしかなかったように記憶しています。

たまにお見舞いに来てくれる方々に救われていました。

開腹手術や,その後の検査などの治療もさることながら,人間関係も,そのつらいことのうちの一つでした。

 

群れでしか行動しない患者同士の中にいるのが苦痛で仕方なく,つらいなこの環境…と思い続けた1か月半でした。

がん患者同士で傷をなめ合うような人たちのいざこざが,目の前で毎日のように繰り広げられ,自分のベッドがある病室なのに,居心地が悪すぎました。

 

今回は,子宮頸がんの手術のために入院した最後の病院での思い出を書いてみます。

ちょっと辛口です。

同じ病気の患者同士で傷をなめ合っては治らない

がん患者以外と話していた

1か月半の入院中,特に後半はほとんど患者同士で話すことがありませんでした。

がんだけでなく,他の病気の患者さんもいたのですが,私はできるだけ,その人たちと話すようにしていました。

 

2008年の乳がん発覚と同時に見つかった子宮頸がん再発で,癌研有明病院(現在の表記は がん研有明病院)に入院しました。

癌研と最後の病院とで決定的に違ったのは,がん患者だけで徒党を組んで,傷のなめ合いをしていたということです。

 

治療はつらいものでしたが,それはみなさん同じでしょう。

徒党を組み,傷をなめ合うがん患者たち

ですが,がん患者チームから聞こえてくる話題は,なんとも発展性に欠けるのでした。

もちろん,前向きに病気と相対してはいるのでしょう。

 

“今日はあれが痛かった”とか,

“あの点滴が気持ち悪い”とか。

“あの患者さんに聞いてみよう”とか。

“あの患者さんなら詳しい”とか。

 

いろんな話し声が聴こえてきます。

主に愚痴です。

わかります,わかります,よーくわかります。

愚痴や弱音を吐きたくなる気持ちはわかるのです。

 

なかでも一番びっくりしたのは,別の病室からやって来たおばさまが,私と同室の女性の所に,別の患者を引き連れてきたときのことでした。

ヌシにお伺いを立てる患者たち

その同室女性は,いわゆる『ヌシ』のような存在でした。

といっても,年齢は若く,たぶん20代後半か,30代の初めくらいか。

退院するまでまともに会話することはなかったのですが,たしか,子宮を全摘したか,そんな患者さんだったと思います。

リーダーシップのようなものを発揮し,フロア全体のがん患者を束ねているような印象でした。

 

そのヌシの所に,3部屋くらい隣の病室のおばさまが,もっと若い20代くらいの女の子を連れてやって来ました。

本当にもう,女の子という表現がぴったりな若さでした。

 

具合悪そうです。

歩くのもやっと。

 

おばさまは,ヌシに言いました。

「この子,今朝からお腹痛いって言ってるんだけど,あなたも同じようなこと,前に話してたことあったわよね?

 そのとき,腸捻転だって言ってなかった? 症状が似てるんだけど」

 

ヌシは答えます。

「たぶん,そうだと思う。腸捻転じゃないかな。

 ●●先生がそのあたりの専門だけど,火曜日と木曜日しか来ないからねぇ。

 今日の回診は▲▲先生だから,私が聞いてみようか」

 

この人,この病院のスタッフだったのでしょうか。

きっとそうかもしれません。

今になって,そう思います。

いや,先生との話しぶりからして,それは違うな。

 

…いいえ,そういうことを言いたいのではありません。

 

あなた達が今いるのは,病院でしょ。

医療のプロがいる場所でしょ。

そう思ったのです。

 

お腹が痛いのなら,なぜ医師に尋ねないのでしょうか。

看護師に伝えればいいでしょう?

ヌシや私がいる病室より,この人たちの病室のほうが,スタッフステーションに近いのに。

彼女が言うからといって,回診の時間を待つのですか?

 

まったく理解できません。

 

ちなみに,女の子のその後の容態は耳に入ってきていません。

距離を置いていましたから。

そんなに仲間が欲しいですか?

なぜ,そんな仲間で群れるのでしょう?

そんなに,がん仲間が欲しいですか?

 

気持ちはわからなくもないのですが,同じ部位のがんでも,一人ひとり,対処法はまったく違ってきます。

だから,他の人の情報はあまりあてにならないのです。

 

心細かったりもするのでしょうが,気持ちを分け合うのとは意味合いが違って見えたのです。

がんをはじめて告知されたときの自分を見ているようでした。

『誰か助けて』

依存心のかたまり。

かの患者グループは,それの吹きだまりでした。

 

気持ちを分かち合うことも大事です。

ストレスを溜め込んでいては,治る病気も治りません。

共感し合うことで,心が安らぐことがあるのは言うまでもないでしょう。

 

ですが,がんという病気にフォーカスしすぎていてはいけません。

もちろん,自分のがんという病気と向き合う時間は必要です。

 

どのような現状なのか。

どういう方法で治していくのか。

 

向き合い方は人それぞれでしょう。

ですが,向き合い方を間違えてはいけないのです。

いくら同じ病気の人が物知り名人だったとしても,聞くべき内容を聞くべき相手なのか,それを判断することくらいは,ほんの数秒でできるはずです。

 

上で書いたおばさま達は,そんなに自分を見失ってしまっていたのでしょうか。

そしてヌシは,なぜ「私が聞いておく」というようなアドバイスをする必要があったのでしょうか。

 

この最後の病院では,患者同士でも特に,がんという共通点がある人たちばかりで群れていることに気づいて,私は距離を置きました。

現にその人たちは,何度も同じ病院での入退院を繰り返す仲間だったのです。

 

それが再発に結びついているとか,だから治らないんだという気はありません。

ですが,以前にも書いた『疾病利得』を享受している人たちだという印象でしかなかったのです。

(過去記事:「がんになったくらいでおとなしくなるな」【疾病利得だったのかも】

 

明るい気分ばかりでもいられないのは承知しています。

私だって,2つのがんを同時に患ったんですもの。

 

その上で,あえて言いたいのです。

同じ病気をわかり合えるからといって,ずっと群れていてはいけません。

治りたいのなら,がん患者同士で傷をなめ合うのも,ほどほどにしておきましょう。

 

治った後に,いくらでも元気に楽しく笑って会えるのですから。

2008年8月1日,鹿児島での放射線治療がすべて終わりました

前回の記事はこちらから読めます↓ 

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前回の日記,2008年8月1日に書いたものには,まだ続きがありました。

さらなる苦労が待ち受けているとも知らずに

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今日は技師さんの都合で,午前中のみの治療。

いつもは夕方からなのに,少し調子が狂う。

 

10:30だったか11:30だったか忘れたので,センターに電話したら,珍しく植松先生が出た。
「混んでないから,来とけば~?」

と言われ,10:30くらいに到着するよう出かけた。


結局,2時間近く待って,最後の放射線照射が終わった。

技師さんたちと握手して,治療室を後にした。


看護師Sさんは所用でお休み。

昨日,最後のご挨拶をした。

 

その前の日,ある人に悔しいことを言われたらしく,泣くのをこらえて点滴を刺そうとした。

わたしも何度も同じような思いをしてきたので,つい一緒に泣いてしまった。

 

スーパー看護師だと思っていたSさんも同年代。

やっぱり普通の女の子。

大阪のFさんと3人で呑みに行けて,嬉しかったな。

Sさんがいたから,2か月も楽しく通えたんだよ。

 

最高の職場にいるんだから,誇りを持って,外圧や嫉妬なんかに負けちゃダメよ。

Sさんでよかった。

ありがとう。

…と言ったら,また泣かれてしまった。

 

なのに,診察室の待合場に戻ったら,公休のはずのSさんが来ていた。

「あたし,熱心でしょー」

用事の合間にセンターに来て,私服で仕事をこなしている。

もう脱帽。

 

Sさんともう一度握手を交し,受付のKさんにも,挨拶を。

「ブログとかやってないの?」

ふふっ,あるよー。

探してごらん。


植松先生も,飄々としてとぼけた人だけど,誰よりも患者さんのことを第一に考える,素晴らしい医師。

これまでに出会ったお医者さんベスト1だよ。

 

もちろん,先生とも握手。

「ますますお元気で」

わたしゃ,どんだけ元気イメージだったんだろか?

かわいく手を振ってもらって,センターを去った。


名残惜しいけれど,ここにいるということは,病気であり続けるということ。

それでは夢もやりたいことも,何も叶えられない。

今度会うときは,元気になった報告をするためでなければならない。

あの治療台に上ることがあってはならない。


この治療法に,このセンターに,そして,先生やみなさんに出会えて,わたしはほんとうに幸せ者です。

2か月間,ありがとうございました。

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植松先生が電話に出るなんて,本当に珍しい。

そんなこともあったんだなぁ。

「混んでないから来とけば?」と言いつつ,2時間も待たせるなんて,やはり『植松時間』は実在するようです…

 

受付のKさんに声をかけられた“ブログ”こそ,この日記がベースとなっていたものでした。

ですが,謂れのない誹謗中傷でコメント欄を荒らされ,この直後に閉鎖しました。

 

この日記には,植松先生と撮ったツーショットの写真も添えていました。

診察室で,たしか看護師のSさんに携帯のカメラのシャッターを押してもらったような。

 

先生はやっぱりシャツにノーネクタイ。

私も相変わらず小生意気な雰囲気を発散しまくっています。

若いなぁ。

お見せしませんが(申し訳ないです)

まだ出していない日記もありますので,これからも折を見て,鹿児島での2か月を引き続きお見せできればと考えています。 

 

幸せいっぱいで治療を終えました。

がんの治療とは思えないほど,好き勝手にいろんな所に行き,鹿児島の雄大さに感動し,おいしいものを食べ,本を読んだり,ひとりカラオケに勤しんだり,たくさんの人とおしゃべりしたりしました。

本当に楽しいことだらけの,バカンスを味わいました。

そして翌日,たくさんの思い出をおみやげに,鹿児島を後にしました。

 

子宮頸がんでの多大な苦労が待っているとも知らずに。

乳がんの治療が終わった日

前回の記事はこちらから読めます↓ 

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2008年8月1日,鹿児島市のUMSオンコロジークリニックで2か月に及んだ乳がんの治療が終わりました。

(当時の名称はUASオンコロジーセンター)

 

また,当時の日記をほじくり返してみます。

乳がんの治療が終わった日

 

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わたしは,がんをなめていたと思う。

子宮頚がんのときは,計3回とはいえ,簡単な手術だけで済んだ。

乳がんも,少ない時間と少ない量の抗がん剤の点滴, それに,さらに少ない時間の放射線照射で, 一日に合計約1時間程度寝ているだけだった。

 

だけど,もっと大変な思いをしている人がたくさんいた。

抗がん剤の強い副作用に長く苦しみ続ける人もいる。

先日,入院先の隣のベッドに2泊3日で検査入院しに来たTちゃんは, たぶん同年代。

乳がんを放っておいたら骨に転移したという。

(※ 過去記事:Tちゃんの生きた証

 

定期検診で大阪から来たFちゃんも,同年代。

膠原病も持っていて,週に3回透析もしているという。

 

同部屋にいる,函館から来たNさんは40代半ば。

数年前に乳がんを手術したうえに,橋本病があるという。

 

以前の入院先やセンターの待合室では, 治療以外はずっと寝ている人, 何度も転移を繰り返している人, がんと一口に言っても,さまざまな姿を目の当たりにした。

最後の砦としてこのセンターに来る人がほとんどで, その方々のお話を聴くにつけ,痛感させられた。

 

わたしは断然ラクをさせてもらっている方で, それはなんとありがたいことかと。

わたしが,がんだと友達に話したとき, みんな,口々に言ってくれた。

「大変な思いをして…」

「わたしだったら,どうなっていたか」

「自分なら,もう耐えられない」

泣いてくれた人もいた。

 

だけど,癌研やセンターで出会った人たちに比べたら, 全然問題じゃない。

「あなたは血が強いねぇ」

血液検査の結果を見た植松医師は,いつも感心していた。

何が強いのかは,結局聞けずじまいだったけど。

 

そんな強いはずのわたしが, 30歳代にして2度もかかってしまったがん。

きっと,多くの人がかかる可能性のあるこの病気を, この歳で二度も経験したのは, もっと有意義に生きろ,まだわからないのか! このばかが! と教えてもらうためだったのだろう。

 

誰かに頼ること,誰かを信じること, 何ごとも楽しむこと,足元を固めること,自然に親しむこと, 何よりも自分自身をまず大事にすること,そして,心を込めて物事に臨むこと,etc...

ありとあらゆることを学び直すために病は現れたのだろう。

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ちょうど今頃の時期です。

12年後に,とんでもない感染症が世界中に蔓延しているなんて,もちろん想像なんてできやしません。

 

そんななかでも,どうにか生きさせてもらっています。

よく,芸人さんが何でもかんでも「●●させていただく」という言い方をしているのが,私は好きではありません。

 

ですが,私が生きていることに関してだけは,やっぱり「生きさせてもらっている」という感じがしている12年間でした。

 

私ごときが,こんな素晴らしい治療法に巡り会えて,施術してもらえるなんて。

本当にもったいないくらいのことです。

 

 

この日の日記は,もう少し続いていました。

次回に書いてみます。

乳がん治療前と治療後のCT画像【UMSオンコロジークリニック】

前回の記事はこちらから読めます↓  

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いつだったかの記事で,乳がんの治療前と治療後を比較した写真があったはずだと書いた記憶があります。

それが見つかりました。

 

その頃の日記とともにお見せします。

日付は2008年7月31日となっています。

記録に残す

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週1回の診察日。

先生,CTのbefore-afterを写真に撮っていいですか?

「うん。でも…afterじゃないんだよねぇ」

ん? どゆこと?

「これからまだ変わっていくからさ」

あぁ,そういうことなんだ。


わたしを輪切りにして,足の方から見上げた状態。

向かって右側が左の乳房。

寝て撮るので,おっぱいの形がだらりんと横に流れている。

 

「これなんかいいんじゃない? ちょうど真ん中あたりなんだよ」

 

たくさん並んだ画像の中から,医師がちゃんとベストポジションを教えてくれた。

へぇぇ,すごいなぁぁ。

ほとんど左右対照になって,左はむしろ小さくなっている。

何度見ても,すごいなぁ。

 

他にもいろいろと込み入った話をし,看護師Sさんとともにげらげら笑った。

結局,わたしの病気そのものとはあまり関係ない話に終始した。

それだけ,問題は残っていない,ということだと勝手に解釈しておく。

 

あと2回か…。

マリッジブルーならぬ,治療終了ブルー&退院ブルーだな,こりゃ。

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初めて鹿児島に来て,一番最初に撮ったCT画像がこちらです。

乳がん治療前のCT画像【UMSオンコロジークリニック】

2008年6月3日付,UMSオンコロジークリニック初診時

繰り返しになりますが,

「輪切りにして,足の方から見上げた状態。向かって右側が左の乳房」

という見方です。

 

左右で胸の大きさが違っています。 

向かって左(実際の右)の胸は無症状で,隙間がところどころあるのに対し,向かって右(実際の左)の胸は濃く詰まっています。

 

 

そして,上の写真から約6週間後のCT画像がこちらです。

乳がん治療開始6週間後のCT画像【UMSオンコロジークリニック】

2008年7月16日付,UMSオンコロジークリニックでの治療開始6週間経過

大きさも形も,ほぼ左右対称になっています。

 

ひとつ残念なのは,初診時は腕を上げて撮ったのに,治療後のときは腕を下ろしているのです。

とはいえ,何枚もある輪切り写真の中から,同じあたりの位置だということを先生が見てくださったので,問題ないと思います。

 

バラバラに載せるとわかりにくいので,2枚並べてみます。

初診時のCT画像
治療開始6週間経過後のCT画像
左:初診時  右:治療開始6週間経過

カルテの保存期間は,たしか7年だったはず。

ということは,私の治療記録はたぶんもう残っていないと思われます。

 

そのことに気づいたのは,このブログを書くようになってからでした。 

今,鹿児島に行って「あのときの治療記録が見たい」と言っても,見ることはできないでしょう。

 

私の症例は,植松先生の本に載っていたかどうかわかりません。

先生の当時の治療史上,1〜2を争う大きさだといわれていましたが,書籍化の際の許諾の話がきていないので,たぶん載っていないはずです。

 

UMSオンコロジークリニックの治療体験者のアンケートに答えたことがあります。

あるルートで見ることができた先生のコメントによると,

左乳腺に多発する大きな原発巣と脇の下と胸骨の横にリンパ節転移を認めStageⅢの状態でした。 

とのこと。

「数え切れない」と言われたほど,何個もの病巣が折り重なるように密集していました。

 

12年経って,久しぶりに対面した自分の乳がん

楽しい2か月だったけど,やっぱりこのときに戻ってはいけない。

気が引き締まる思いがしました。

 

そろそろ,この治療が終わる頃でもあります。

普段よりも人の死を思う2週間でした【誰かに迷惑かけてもいい】

前回の記事はこちらから読めます↓ 

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衝撃だった三浦春馬さんの死

普段よりも,人の死について思う2週間でした。

 

2020年7月18日,三浦春馬さんが亡くなりました。

特段のファンというわけではありませんでしたが,NHKの『世界はほしいモノにあふれてる』という番組をたまに視ていて,「綺麗な人だな,いい子だな」と思っていました。

 

綺麗というのは,顔の造作はもちろん,なんというか,心の綺麗さが透けて見えるような佇まいをしていて,どこにも雑みを感じさせない男性だなという意味合いです。

(※あくまで個人の主観です)

 

私も,役者をやったり,しゃべる仕事など,芸能人の真似ごとの底辺に少しだけいたのでわかるのですが,結局,トップスターというのは『すごくいい人』という表現に尽きるんですね。

 

本当にトップの座に昇りつめる人は,誰からも愛され,誰にでも分け隔てなく接することができる人なのです。

ゴシップやスキャンダルを書き立てる雑誌などもありますが,それがどんなに虚構に満ちた駄文であるか。

実際に間近で見たことのあるスターはみなさんどなたも,その人を中心に,包み込まれるような空気感が漂っていました。

これがいわゆる『オーラ』といわれるものなのでしょうか。

 

それはさておき,三浦春馬さんはまさに,その『すごくいい人』な雰囲気に満ち溢れている印象がありました。

活動のいくつかをYouTubeで視てみましたが,パフォーマンスの数々はどれもハイレベルそのもので,惹きつけられます。

 

それだけに,自ら死を選んだというニュースは,ファンでなくても衝撃的でした。

彼の悩みや苦しみは,彼自身にしかわかりません。

彼のことでなくても,他者の思いを完全に理解することは,どんな記述や発言から分析しようとも不可能です。

 

ですから,これ以上のことは,ご遺族や近い人たちの間だけで共有できればいいのではないでしょうか。

それを解明しようと躍起になっている記事も見かけますが,そうした行為は,精神医学や心理学の分野の方々におまかせしておけばいいと思います。

ファン心理としては,どんなことでも知りたいという気持ちも出てくるでしょうから,そのあたりとの折り合いがむずかしいところではありますが。 

選択肢を広げる

自ら死を選択したALS患者

そして,その数日後には,ALS(筋萎縮性側索硬化症)患者の女性が,医師2人による嘱託殺人で亡くなったというニュースを目にしました。

夜のテレビ番組でニュース速報として字幕表示されました。

 

意識があっても身体の自由がまったくないという事実。

私もたぶん,同じような境遇になったら,死にたいと願うほうでしょう。

「それでも生きて」と言われたとしても,周囲の人たちに迷惑をかけている自分,やりたいことを何一つできていない自分に絶望することでしょう。

 

なってみなければわかりません。

もしかしたら,生きたい,生きたい,生きたい!という本能のようなものが湧いてくる可能性だってあります。 

現時点で想像できるとすれば,私もこの“被害者”の方のように,早く死なせてほしいと願うかなぁと感じています。

 

安楽死尊厳死の議論は,どんな専門家であっても,決着を見ることはないでしょう。

本人にしかわからない価値観,本人が抱く死生観,その上で,サポートする周囲の人びととの関係性なども複雑に絡み合う問題です。

そこに経済的な事情が加わるなどすれば,さらに複雑になってきます。

 

のほほんと生きさせてもらっている現在の私個人の意見として,批判覚悟で言うならば,自ら選択ができるようになってもいいと思います。

とはいえ,遺された人たちのことを思えば,簡単にはいきません。

手続き云々もさることながら,遺族のその後の心理状態に多大に作用します。

それを抜きにして「早く死なせて」と簡単に主張することは,私にはできません。

 

人の死というものは,そう簡単には受け入れられないことです。

ファンでなかった私でさえ,三浦春馬さんの突然の死は衝撃的すぎました。

このALSの女性の死も,自分だったら…と考えさせられた人も多いはずです。

それが,ましてや自分の身近で展開されるとなると,遺された人たちへのダメージは相当大きいことは想像に難くありません。

共通するのは「自ら死を選択した」ということ

このお二人に共通するのは,いずれも「自ら死を選択した」ということです。

ですが,その方法も状況もまったく違うものです。

 

『終活』というワードが世に出回るようになって久しいですが,それとは違った,『もしも活』も必要になるのかなと考えています。

 

もしも自分がこのような事態に陥ってしまったとしたら。

家族がこのような事態に陥ってしまったとしたら。

考えたくないけど,考えておかなければならないのかな,と。

 

そう思っていた矢先,このような記事を見つけました。

toyokeizai.net

白血病で亡くなった高校生のワイルズさんのブログ「ワイルズの闘病記」を軸に,亡くなった人が書き遺したものとの向き合い方が述べられています。 

故人のサイトだから対話できないかといえば、そんなことはない。当時のままの筆者がそこに存在している。自分のいない未来に対して声を上げているなら、耳を傾けてみるのは後ろめたい行為ではないはずだ。

享年17歳の闘病ブログが10年後の今も残る意味 | ネットで故人の声を聴け | 東洋経済オンライン

ワイルズさんが亡くなった後は,ご両親が引き続き更新していたようです。

遺された人は深く悲しみ,自問し,逝った人を思う

この3件を眺めて思うのは,遺された人が深く悲しみ,自問し,逝った人のことを考えているということです。

 

三浦春馬さんは,共演者やスタッフ,そしてもちろんファンの慟哭が,あらゆる方面から伝わってきます。

 

ALSの女性は,お父様がどこかの報道機関のインタビューを受けていましたが,家族として,たとえ本人が望んだとしても,勝手に殺されたも同然ですから,憤りを感じないわけがありません。 

 

ワイルズさんは,ご両親にとって一人息子だったようですし,失った悲しみは計り知れません。

亡くなった当時は高校生。

そのお友達がご自宅の祭壇を囲んで,彼を偲ぶ会食をしている写真などが載せられていました。

 

「ひとりじゃない」

「あなたのことを思っているよ」

 

私もがんのとき,よくこんな励まし方をされてきました。

と言われても…

自分のことで精一杯だし,自分の人生だから,自分のことは自分でなんとかしたいし,自分で決めたい。

 

他者が自分のことを思ってくれているなんて想像する余裕はありませんでした。

迷惑かけたくなくても,迷惑がかかっている。

その人の時間を奪っている。

そんな罪悪感というか,自責というか。

 

ここまで書いてきましたが,今回はうまくことばがまとまりません。

ただ,誰かが必ず自分のことを思ってくれている。

その人のために生きる,という選択肢があってもいいのかなと思います。

 

「自分のことなんて,誰も考えちゃいないよ」

私はそう思うときがありました。

 

それでも,この世の中に誰か一人は,必ず,必ず,必ず,いるはずです。

「そういう人だって,関わった日にゃ,迷惑かかってるでしょ」

私はひねくれているので,さらにそう思ったりもしました。

 

ですが,最近ではこう思うようにしました。

 

迷惑をかけることができるくらい,自分は尊い存在だ

 

ここでは,王様とか,エライ社長とか,そんな上位の概念と「尊い」というワードを結びつけます。

上位の人は,迷惑をかけても無条件でサポートしてくれる人がいるでしょう?

王様=尊い,そんな考え方。

 

自己肯定感が低いと,その考えと現実とのギャップに凹まされることもあるかもしれません。

しかしながら,私の場合は,意外とその言葉に脳が騙されてくれたようです。

 

誰かがどこかで見てくれているのだから,簡単に死ぬわけにはいきません。

その選択肢は,できることなら「生きる」一択のみでありたいものです。

できれば,「誰かのために,尊い自分が生きる」というオプションも加えておくといいかもしれません。

 

その相手が誰かはわからなくても。

無駄に過ごした1日は,誰のものでもなくやっぱり私の1日

前回の記事はこちらから読めます↓ 

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今回も過去の日記を掘り起こしてみます。

 

2008年7月25日の日付です。 

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「テレビ写りたい?」

センターに着くなり,植松医師から声をかけられる。 

鹿児島ローカルの放送局が取材に来ていた。

 

CTの画像を一緒に見ながら,医師と患者のやりとりを撮影。 

取材クルーからいくつかインタビューを受けた。

 

彼らも“よかったですねぇ…”と驚いていた。

約2ヶ月で,差が歴然としているんだもん。

すごいね! すごい!

 

「ね! ホントすごい!」


いや先生,あなたがすごいのよー!

…植松医師,やや苦笑。

 

そんな会話をそばで聞いていたクルーが,目を白黒させて,唖然としていた。

「昨日のCT見たときが,ホント嬉しそうな顔してたよね」

えー,先生が嬉しそうにしていたからだよー。

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この取材はたしか,NHK鹿児島放送局の夕方のニュース素材だったと記憶しています。

 

「昨日のCT」というのは,腫瘍が消えてなくなったことを確認した日のことです。

(過去記事:イマジネーションの力を使わない手はない

 

そろそろ治療もおしまい,という頃でした。

友だちとのおしゃべりのような和気あいあいとした関係を目にしたNHKのクルーは,時折,キョトンとした表情を見せていました。

 

2か月もの間,自分の住む場所以外に滞在するということがなかったので,すべてが新鮮で,伸び伸びと過ごしていたら,もはやクリニックの住人のようになっていました。 

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「今回の治療で,仕事をクビになっちゃったらしいんで,なんか仕事あったらまわしてあげてください」

先生がお願いしてくれていた。

 

わたし,鹿児島で仕事することになるのー?

ははは。

あてにはしていないけどね。

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この10日くらい前に,派遣で勤めていた会社から契約を解除されました。

6週間だった予定が8週間に延びたことで,「それでは受け入れられない」と通達されたことを,派遣会社のマネジャーから知らされていました。

このことは,また改めて別の記事に書いてみるつもりです。

 

その知らせを電話で受けた日は,「仕事辞めさせられた」と半べそかきながら治療に行ったのでした。

「なーーんだ,仕事くらい,いっくらでもあるじゃーん」

先生は涼しい顔をします。

 

でも,そんなことがあったことをちゃんと憶えていてくれて,冗談でもこんな心配をしてくれることが,とても笑えて,そしてとても嬉しかったです。

 

この撮影の後は,いつもどおりの点滴と照射のメニューへ戻りました。

 

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CTと放射線の照射の機械とその他諸々が,同時に1つの部屋に集まるなんて,見たことも聞いたこともない。

テレビのクルーも,部屋の広さに驚いたらしい。


ここには世界に一つしかない設備があるんだ。

単なる放射線医療,よくある標準的治療では決して得られない,その付加価値を求めて,全国各地からがん患者がやってくるのだ。

 

わたしの付加価値はなんだろう?

ありあまるお金を払ってもらえるだけのものを,わたしは持っているのだろうか。

わたしは真のプロフェッショナルになれるのだろうか。

わたしは何のプロフェッショナルなのだろうか。

わたしは本当にプロフェッショナルになれるのだろうか。


世界に一つだけの,超一流のプロたちによる,四次元ピンポイント照射。

わたしのがん治療も,そろそろ終盤だ。

次はわたしが超一流になる番なんだ。

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なんだかカッコよさげなことを書いていますが…

それから12年,真のプロフェッショナルと言えるものは手にできていません。

 

何をやっていたんだろう。 

未来に向かって船をこぐ

ちょっと凹んでしまいました。

いろいろとやってきましたが,何も実になっていない,身についていない,そんな感触です。

 

せっかく生かして,生きさせてもらっているのになぁ。

アラフィフといわれる年代になり,まだまだ甘い人生観だったのだと痛感しています。

 

「あなたが無駄に過ごした1日は,今日死んだ誰かが生きたかった1日かもしれない」 

 

そんな名言のようなものがあります。

そうかもしれません。

1日を大事に生きないと,生きられなかった人もいるというのに。

 

ですが。

私の1日は,やっぱり私の1日です。

 

私の無駄は,誰かにとっては無駄ではないかもしれない。

超一流とか,真のプロフェッショナルとか,そうした表現は後づけであって,すなわち結果論。

 

過ぎていった日は戻らないから,これからの残りをきちんと丁寧に生きていけばいいだけのこと。 

それが,お世話になった人たちへの最大の恩返しなのでしょう。

 

生きていれば,そんなことを悩む日さえやってきます。

それでもやっぱり,その人の人生は誰にも邪魔されるべきではないと,私は思うのです。

Tちゃんの生きた証

前回の記事はこちらから読めます↓

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鹿児島での乳がんの治療中,Tちゃんという女の子と知り合いました。

この過去記事↓の半ばに登場する「Tちゃん」です。

(過去記事:樹木希林さんと同じ治療を受けた私が「全身がん」に関する記事を読んで思うこと

「検査のために入院しているというTちゃんも、そのときすでに乳がんの末期でしたが、「先生、腰が痛いよ」と言って照射してもらっていたと話してくれました。」

 

私は提携先の病院に入院していましたが,治療期間の途中で転院しました。

そのときに同室になりました。

いくつか年下で,長いまっすぐな黒髪が印象的な子でした。

 

彼女も乳がんで,検査のための短期入院,2泊3日と言っていました。 

UMSオンコロジークリニックで治療をしたのは,手術と抗がん剤治療を別の医療機関で受けた後だったそうです。

 

腰の骨に転移していて,「腰が痛いよ」と植松先生に訴えて,照射してもらっていて,それが終わると,スーッと痛みが消えていったといいます。

 

筑紫哲也さんもそうでした。

痛みを取ることのほうに集中したというお話でした。

(過去記事:植松稔著『世界初からだに優しい高精度がん治療 ピンポイント照射25年間の軌跡』レビュー3

 

Tちゃんは,「抗がん剤もやったよ」と話してくれました。

 

あれは,「抜ける」んじゃない。

「もげる」

 

そう表現していました。

 

目の前にいる綺麗な女の子の姿からは想像もできないことでした。

黒髪が背中の中央あたりまでまっすぐ伸びていて,顔色も良く,検査結果を伝えに来た医師と,普通に立って話しています。

 

暇な時間には,お互いのことをいろいろ話しました。

 

「お寺に通ってた時期があるんだけど,もういいや!つって頭剃って行ったのね。

 そこのお坊さんが『思い切ったねー!!』つって爆笑してた」

 

ほんと,思い切りましたねー。

 

…と思ったのですが,お寺に通っていたということは,彼女なりに救いを求めていたのかな,とふと考えてみたりして。

 

「なんか胸にあるなと思ってたけど,気づかないふりしてた」

 

そんなことも言っていたことを憶えています。

 

もっと早く見つけていれば。

気づかないふりなんてしないで,早く検査してもらえばよかった。

 

そんな後悔があったのかなと想像してしまいました。

Proof of existence for T-chan

 

断片的にしか彼女の話は憶えていないのですが,転院して早々,同じ治療を受けていて,しかも同年代ということもあって,仲良く話しました。

とはいえ,連絡先を交換する間もなく,私がクリニックへ出かけている間に,彼女は退院していきました。

 

クリニックでTちゃんのことを話すと,看護師Kちゃんも「彼女もおもしろいでしょー」という反応を示しました。

友達になった大阪のHちゃんと同時期に治療していたらしいことも,知りました。

Hちゃんも同様に「Tちゃん,おもしろいよね」と言っていました。

 

 

 

半年後,Tちゃんが亡くなったことを聞かされました。

 

 

そこまで悪い状態だとは,まったく思っていませんでした。

別の病院で治療を受けた後にUMSオンコロジークリニックに来て,治ったのだとばかり思っていました。

 

そんなことはまったく知らず,すべての治療が終わって3か月ごとに鹿児島へ検査のために通っていたとき,看護師Kちゃんに尋ねました。

守秘義務があるからあまり言えないんだけど…と前置きした上で,話せる範囲で,Tちゃんのことを少しだけ聞かせてくれました。

 

私と会った時点で彼女はすでに末期であったこと。

亡くなる直前に,おつき合いしていた人と結婚したこと。

そして,眠るように息を引き取ったということ。

 

筑紫哲也さんの場合と同様に,すでに手立てのないステージとなっていて,本人は痛みと闘っている状態だったのです。

QOL(クオリティ・オブ・ライフ=生活の質)を高める目的で治療を受けていたのでした。

 

元気そうに見える人でも,どこかに不調を抱えていることは往々にしてあります。

とはいえ,彼女はそこまでのことを感じさせないくらいの佇まいで,私は楽しくおしゃべりさせてもらいました。

 

少しだけしか話せなかったけれども,彼女の人生の一部に加わることができました。

 

私の話すことに笑ってくれていたが,彼女を楽しませることはできたのだろうか。

何か,彼女に失礼なことは言わなかっただろうか。

彼女と話していて,笑顔の奥にどこか遠いものを感じる瞬間があったけど,それは自分の人生の終わりを見据えていた人が発する距離感のようなものだったのか。

 

こうして10年以上が経って振り返ってもなお,私は自分のことしか考えていませんね。

Tちゃん,ごめんなさい。

 

私に今できることは,Tちゃんという女性がこの世に存在していたことを書き残すことくらいです。

 

彼女が「気づかないふりしてた」と言ったことを伝えることくらいです。

 

何かのご縁があって,このブログを読んでいる人へ。

あなたに「これって,がん?」と思う異変があるのなら,このTちゃんの話を思い出してください。

 

そして,早く検査を受けてください。

納得のいく治療法を見つけて,しっかり治してください。

彼女の分まで生きてください。

 

それが彼女の生きた証になるのです。